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映画『風と共に去りぬ』 ハリウッド映画史に残る不朽名作を語ってみる

奇跡のドラマ 『風と共に去りぬ』

劇場で観る

そう久しぶりに劇場で『風と共に去りぬ』を鑑賞した。
ロードショー終了前日と言うのに、満席、立ち見御礼となってしまった(・_・、

今回は『風と共に去りぬ』の60周年記念と言うことで、なるべく60年前のオリジナル状態に戻すと言う形で上映されました。

今回のリニューアルに付いてパンフより抜粋します、以下の6点がリニューアルされました。

  1. クリアなデジタル・サウンド
  2. 純正テクニカラー・ダイ・トランスファー・プロセスの復活
  3. 現存する複数の映像素材より最良の部分を探し出してデジタル・クリーニング
  4. 近年の版に欠損が生じていた約十二分を復元
  5. 32年ぶりにオリジナル・スクリーン・サイズのスタンダートで上映
  6. 字幕は戸田奈津子さんの新訳

といったところです。

当初、映画のカラーは純正のテクニカラーだったのですが、撮影・そのプリントに非常に手間が掛かるため、現在ではイーストマン・カラーに取って変わられました。
テクニカラーは1915年創設したテクニカラー社の商標で、代表的な映画作品は、この『風と共に去りぬ』の他に、ディズニーの『ファンタジア』、『オズの魔法使い』が有ります。
今回の画像に関しては、デジタルで復元、スクラッチ、しみ、汚れ、変色をチェックして復元しています。

更に近年欠損していた、スカーレットが「私は二度と再び飢えない!」と叫ぶ場面、レットに別れを告げる場面の約12分間が復元されました。
また、この作品、途中に休憩が入るのですが、序曲、間奏曲、休憩音楽、終曲の計約12分間、音楽だけで画面は真っ暗、をも復活させています。
サウンドはデジタル化、ノイズのクリーニングなど... 。
スクリーン・サイズをスタンダードの1対1.33の公開当時のオリジナルに戻したこと。
現在主流は1対1.66ですね、これで上映すると画像の上下が切れてしまうそうです。
従って上映の際も、映画館自身も工夫が必要だったみたいです。

繰り返し観る

感想の方にも書きましたが、この作品、ビデオやテレビでは何度となく観ている作品。
その度に新しい発見が有る。
それは、この映画の素晴らしさも有るが、自分自身の成長によってこの作品から得るものが違ってくると言うのも有ると思える。
この作品は1939年に出来上がった作品。
今更、そんなに古い作品を観る必要もない!と言う人も沢山いるかも知れない。

それではここで少し古い映画、新しい映画の私的解釈を!(笑)

映画とは、その時代を映すものであり、また観客も時代にどっぷり浸かっている、と言うことは、映画にとっても“今”が大切で有る事は間違い有りません。
そう言った点から映画というものをとらえると、今の映画が最高に面白いのは間違い有りません。
では古い映画はつまらないのでしょうか?

書籍というものは、それこそ2000年前から存在し、繰り返し読まれ続けているものが有ります。
それなら映画も同じでは?まぁ~そう単純な話では有りません。
映画は生まれてから100年が経っただけの新しい文化です。
サイレントと言う無声映画時代を経て、トーキー、そしてカラー映画、今ではSFXにCGと言う技術革新の中で進んで来ました。
これらの技術革新は、いったい何のために必要だったのでしようか?答えは1つしか有りません。
より“リアリティ”を与えるために生まれてきたのです。

果たして映画にリアリティを与えることが、映画の良さに直接結びついているのでしょうか?
ある意味ではそうだと言えますし、ある意味では違うとも言えます。
技術の革新で表現が容易になることによって、表現が平易になるという弊害も生まれてきています。
そう映画は技術だけでも有りません。

それでは時代性?と言った場合、どれだけの作品が現代を浮き彫りにし、それを効果的に表現しているのでしょうか?これも作品の古い新しいとは別のものです。

現代は、映画が生まれた100年前、『風と共に去りぬ』が生まれた60年前と比べて、社会やそこに生活している人の人間関係も複雑化してきています。
当然、この点に関しては、現在の映画でしか描くことの出来ないものかもしれません。
しかし物事の本質全てが、果たして複雑化しているのでしょうか?
古い映画で、今でも観る価値の有る映画、それは物事の本質を捉え、純粋な(単純な)表現によって、観客によりストレートに見せることではないでしょうか?
社会的事象が複雑化していたとしても、実際、そこにある本質は、愛情であったり、嫉妬であったり、友情であったりと言ったシンプルなものなのかもしれません。

とすると、古い映画を観る価値がないというのは、拙早な考え方と私は思います。
確かに新しい映画の中にも素晴らしい作品は有ります、しかし古い映画の中にも素晴らしい作品は沢山あるのです。
それを知った上で、繰り返し観ることが出来る作品、自分の成長と共に観ることの出来る作品というと、当然の事ながら古い作品になる訳です(例え、新作映画を今観たとしても、10年後に見直した時には、古い映画になっている訳ですから...)。

奇跡が生んだ映画

感想の方にも書きましたが、いくつかの偶然と必然が結びついた奇跡の作品と言えます。
まず、この小説が一人の女性によって生み出されたベストセラー小説であり、作者マーガレット・ミッチェルは、この作品の前にも後にも、小説は書いていないのです。

そして、この小説がハリウッド映画界のプロデューサー デイヴィッド・O・セルズニックの手元に渡った事。
しかしセルズニックは当初この小説の映画化に対して否定的でした。
その理由は、小説がベストセラーであり既にアメリカ国民の中にイメージが出来上がっている、と言う点でした。
そして当然、その小説に出てくる登場人物のイメージも既に将来の観客の間に浸透していました。

それに応える俳優を見付け出したこと、クラーク・ゲイブルとヴィヴィアン・リーの存在です。
クラーク・ゲイブルに関しては、既にこの頃(1930年代)には、MGMの大スターであり、国民の間でも、レットは彼しかいない!と言う確信が有りました。
しかし、そのゲイブルにしても、コスチューム(古い時代の服装)を着て映画に出ることを嫌っていたことと、MGMからゲイブルを貸し受けるには膨大な出演料が必要だったのです。

そして最大の問題は、この映画の主人公、スカーレット役の女優を誰にするか?でした。
一般の公募や数多くのスターを面接、フィルム・テストを行いました。
そこには話題を盛り上げると言う戦略も有りましたが、それ以上に適役が見つからないという問題もありました。
更に『風と共に去りぬ』が出来る前年『黒蘭の女』と言う、同時代を描いた傑作が生まれてしまったのです。

スカーレット役に『黒蘭の女』で見事に南部の女性を演じたベティ・デイヴィスという声もありましたが、それでは『黒蘭の女』に作る前から負けを認めた事になります。
更に有力な候補として、ポーレット・ゴダードと言う女優が挙がりました。
彼女はプロデューサー セルズニックの隣の家に住むチャールズ・チャップリンの恋人だったのです。
セルズニックは、この時相当悩み、それは大々的な宣伝の結果が、隣に住むゴダードで良いのか、そして今ひとつ彼女にスカーレットの姿をダブらせる事が出来ないことでした。

そうこうするうちに、スカーレットのいない部分の撮影が始まりました。
そして遂に『風と共に去りぬ』で有名なアトランタが炎上し倉庫が崩れ落ちるシーンの撮影中(1938年12月10日夜)に、セルズニックの兄マイロンに「デイヴィッド、君のスカーレットだ!」と連れて来られたのがヴィヴィアン・リーだったのです!

彼女は、それまで数本の映画に主演しただけのアメリカでは、無名のイギリス人女優でした。
恋人のイギリス人名優ローレンス・オリヴィエ(当時、ハリウッドで『嵐が丘』を撮影)を追いかけてアメリカに来て、アメリカでの仕事のエージェントを、セルズニックの兄マイロンに任せていたのです。
最終的には、ジョーン・ベネット、ジーン・アーサー、ポーレット・ゴダード、そしてヴィヴィアン・リーでカメラテストを行いました。
今も残るテスト・フィルムを観ると、スカーレット役は彼女しか考えられません。
そしてその年のクリスマスに、ヴィヴィアン・リーに採用を告げたのです。
セルズニックとリーの出会いこそ、この映画を作るために起きた最大の奇跡と言えます。

この作品のプロデューサー、デイヴィッド・O・セルズニックと言う人は、父親も映画関係の仕事をしており、彼自身も小さい頃から映画に携わってきました。
父親からは、お金を使うことの重要性を教え込まれ、父親が破産すると、弟と共に映画界でどうやって映画を作り損をしないか、どれだけ自分の思い通りに映画を作り出すかを追求していきました。

またハリウッドと言うところは、映画は分業化されており、映画を作る際の一番の権限者はプロデューサーだったのです。
彼自身、次々と世の中に名作を残したと言う点で、素晴らしい映画人で有ることは間違い有りません。
バイタリティに溢れ、独善的で癇癪を起こし、しかしカリスマ的で有った。
『風と共に去りぬ』が出来るには、セルズニックと言う映画界の怪物も必要だったのです。

彼の下で、監督、脚本家、編集者、そして俳優、全ての関係者が酷使されました、もちろん彼自身の肉体も...。
当初、監督にはセルズニックの友人でもあるジョージ・キューカーが当たっていましたが、脚本への不満から降板、後を引き継いだのがヴィクター・フレミングでした。
しかし彼は体調を崩し途中で休養に入ります。
その代役にはサム・ウッドが当たり、フレミングが戻ってからは、6班体制で撮影が続きました。

脚本も当初、シドニー・ハワードが担当していましたが、途中で逃げ、ベン・ヘクトなど数名の脚本家入れ替わり立ち替わり当たりましたが、構想自体はセルズニックの頭の中だけに有り、撮影をしながら脚本を作ると言うものでした。

撮影が終わってからが更に大変でした。
そう膨大なフィルムの中からフィルムの編集を行わなければならないのです、しかも、短い期間で...

この作品は、テクニカラーでの作品となりました。
この頃、カラーは未だ一般的ではなかったのです。
そして南部の雰囲気を出すために、今で言うCGと同じ考え方の方法を使いました。
それは背景に数多くの絵を使用したのです。
実写と絵を重ね合わせると言うものでした。
当然そこには、カラーだからこその色合いという問題が有りました。

こういった問題の数々をクリアして、スニーク・プレビュー(覆面試写会)を通じて、公開に漕ぎ着けました。
そして公開されたこの作品は、空前の大ヒットとなりました。
そうこの映画の成功の裏には、時代が生んだ偶然と数多くの奇跡、それを生んだのは人々の情熱があったのです。

時代に支えられた映画

1930年代アメリカ、世界恐慌から立ち直りを見せた時代、またヨーロッパでは世界大戦の足音が忍び寄った時代。
逆にハリウッドでは、そういう時代に国民の唯一の娯楽、“映画”を作れば、観客が動員できる時代。
今のようにテレビ等、娯楽が多様化していない時代で、各映画会社が豊富な資金を持ち、またサイレントからトーキー、モノクロからカラーという2つの大きな技術革新を経た時代。
だからこそ『風と共に去りぬ』に膨大な資金を集められたのです。

※ 『風と共に去りぬ』を作るために、セルズニックの資金調達は困難を極めた。
それは余りにも製作費が膨らんだことにある。
しかしそれでも集められたのは、セルズニックに有力なスポンサーがいたことやMGMの創始者メイヤーの娘婿で有ったこと、すなわち映画は投資しても儲かるビジネスであったことによる。

現在、これだけの映画を撮ることは不可能に近い。
ある程度、資金の回収が見込まれる大作『タイタニック』や『マトリックス』のような作品。
若しくは、低予算の作品と言う二極化が進んでいる現代では、一人の情熱やこだわりだけでは、これだけの大作映画は作れない時代になってきているのです。
『風と共に去りぬ』は、この時代が生んだ作品とも言えるのです。

『風と共に去りぬ』は奇跡が生んだ映画で有り、その生まれる過程もドラマだったのです。
確かに古い映画です、しかしこの時代にしか生まれようのない映画、それが『風と共に去りぬ』なのです。
新しい映画を観る喜びと共に、古い映画を観る楽しさも同時に味わって欲しい、それが私の願いです。

Reviewed in 12.1999

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