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イタリアの巨匠 ルキノ・ヴィスコンティの生涯、バイセクシャルが描く表裏の世界

イタリアの映画界の至宝

ルキノ・ヴィスコンティ

彼はイタリアの映画界の至宝で有ると同時に、ヨーロッパ文化の至宝でも有った...
彼は、自分の出生でもある貴族階級と、新しい時代の狭間にあり、その苦悩と、そして官能を、映像の中に描き続けた。

ヴィスコンティ自身がバイセクシャルであり、フランコ・ゼフィレッリやマルチェロ・マストロヤンニ、アラン・ドロン、そしてヘルムート・バーガーを愛した。
本人は若い頃からの美男子で、彼を見出したのはパリ社交界の花・ココ・シャネルであるから、女性からも相当モテたことも想像できる。
また貴族の出自で、イタリアのリゾート地コモ湖畔にも城を持つほどでありながら、一時期は共産主義に傾倒していく経歴を持つ。

ヴィスコンティ自身は、男と女、富と貧しさ、そして美と醜さの両面を見つめ、そして映画に昇華させた監督であった。
貴族としての血と共産主義者として独裁政治と戦う情熱と言う、真逆とも言える行動が、男女を超えた美への執着なのかもしれない。

ルキノ・ヴィスコンティ -作品と演出- はこちら

そして・・・

ヴィスコンティ生誕110年 没後40年メモリアル、第二弾!

-イタリア・ネオレアリズモの軌跡- 公式サイトはこちら

『若者のすべて デジタル完全修復版』 上映中 ← 上映終了
『郵便配達は二度ベルを鳴らす デジタル修復版』 2017年1月7日~ ← 上映終了
『揺れる大地 デジタル修復版』 2017年1月21日~ ← 上映終了

2016年12月24日(土)より新宿武蔵野館ほか全国順次公開

私にとってのルキノ・ヴィスコンティ

Luchino Visconti
彼の作品は、何かを訴えかけてくる。
まず、その映像に圧倒される。内容は判るが、彼が何をこの映画で語ろうとしているのかが、その場ですぐは判らない。
でも、観た後の何とも言えない、身体の中をえぐられるような感覚は、彼の作品ならではのものでもある。
ここでは、少しでも、彼の作品で何を伝えたかったのか?を解明したいと思う・・・

ルキノ・ヴィスコンティ 基本情報

ルキノ・ヴィスコンティ Luchino Visconti

1906年11月2日イタリア ミラノ生まれ-1976年3月17日イタリア ローマ没 享年69歳

イタリアの映画監督、脚本家、舞台演出家、貴族(伯爵)

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ルキノ・ヴィスコンティの生涯

ルキノ・ヴィスコンティの経歴

彼の祖先は、イタリア国王家以上に古く、イタリア・ルネッサンスの歴史にも深く関わっている。
八世紀から始まり、十二世紀になると、ヴィスコンティ一族の名が、ミラノを中心とした地域に散見されるようになる。
ヴィスコンテとは、イタリア語で子爵で有り、複数形のヴィスコンティがそのまま家名となった。
1800年代に侯爵の称号を譲られ、更に、オーストラリア行程に承認され、今日までに至っている。
ルキノの母方の祖父ルイジは、大作曲家ヴェルディの親友であり、本人もまた、優れた音楽家でもあった。
ルキノの父ジュゼッペは、コモ湖にある別荘で、ルキノの母、カルラと出会い、1900年に結構する。
カルラは、ミラノ社交界随一の美女であり、類い希な知性の持ち主でも有った。
その中で彼、ルキノは誕生する。1906年11月2日のことである。

Luchino Visconti

当然の如く、彼への教育は、典型的な貴族のそのものであった。 20歳になる頃は、乗馬に熱を上げ、騎兵教育を受けている。
同時期に父侯爵がミラノ芸術演劇座を興している。ルキノと演劇との関わりが、ここから始まる。
そして、彼にとって一つの転機が訪れる。
それは、イギリスを旅行し、パリに訪れたときである。
パリで、上流社交界に顔を出したルキノは、劇作家アンリ・ベルンスタイン、詩人ジャン・コクトー、舞踏家セルジュ・リファール、作曲家クルト・ヴァイルなどの文化人と知り合うが、もっと重要なことは、彼を後に、映画界に導くことになる、ココ・シャネルと知り合ったことだった。

彼は、パリの映画に魅せられた・・・
エーリッヒ・フォン・シュトロハイムの『結婚行進曲』、ジョゼフ・フォン・スタンバーグの『嘆きの天使』、レゴーシンの『孤帆は白む』などに強い感銘を受けた。
彼は、早速、撮影機を買って映画作りをはじめた。
その話を聞いて、ココ・シャネルが、自分の友人でも有る、ジャン・ルノワールを紹介した・・・’36年の夏のこと。
ルキノは、ルノワールの『ピクニック』の助手を手始めに、『どん底』、『大いなる幻影』の準備も手伝った。
また、ルノワールとその仲間達は、フランス共産党員であり、ルキノの政治的な開眼にも大きな影響を与えた。
後に赤い貴族と言われる所以である。

ルノワールがローマでサルドゥーの『トスカ』を映画化しようとした時、ローマのロケ・ハンは、ルキノが案内していたものの、第二次世界大戦で、ルノワールは、フランスに戻る。
この後を引き継いだものの映画化にはたどり着けなかった。
この頃、いくつかの脚本を執筆しているが、映画化されていない。
また、ミラノからローマに移住するが、死ぬまで、故郷のミラノの地に戻ることはなかった。

映画批評誌“チネマ”誌上で、初めての論文“死体”を発表、旧態依然のイタリア映画界を攻撃し、新しい方向、“リアリズム”の方向性を明確にした。
この論文は、ルキノ・ヴィスコンティの名前を反体制の若者達の間で、一躍有名にした。
かねて、ルノワールに薦められていたジェイムス・ケインの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(日本語題名)を脚本化、後に『妄執』(イタリア語原題)と変えられ、映画化された。
1942年、検閲、カットを強いられる中、完成、公開までたどり着いた・・・これが、彼のデビュー作となる。
その頃、ムッソリーニが失脚、ドイツ軍がイタリア占領、ルキノの反ファシストとしての闘争が始まる。

戦後、彼は、演劇の世界に身を置く。
彼は、数多くのオペラ・演劇の演出を手掛ける。
もちろん、これらの舞台手法が、彼の映画作品にも、影響を与えていることは、言うまでもない。
’54年には、マリア・カラスを主演にしたオペラ「ラ・ヴェスターレ」を演出し、オペラ界への進出も果たした。
カラスとの友好もここから始まった。
その後の映画界での活躍は、次に紹介する。
その中で、彼は、「ルートヴィヒ 神々の黄昏」の撮影が終わり、編集に入る直前の’72年7月27日の夜、ローマのホテルで、心臓血栓の発作に倒れる・・・
半年の闘病生活の後、編集を終わらせ、公開にこぎ次ぐ。
彼は、車椅子での生活が始まり、それを気遣った周りの人々が、全てセットで、「家族の肖像」を完成させる。続く、「イノセント」を完成させ、ダビングの最中の1976年3月17日に自分の部屋で、亡くなった・・・

ルキノ・ヴィスコンティ

ルキノ・ヴィスコンティ・・・・・
英知の人、その偉大な仕事によって祖国の、ヨーロッパの、世界の芸術の、映画の、演劇の歴史を30年以上ものあいだ背負った人
われわれは忘れない
彼が、レジスタンスでの戦闘的な反ファシストであったことを
そして、労働階級とその闘争に
つねに心からの連帯と忠誠を表明し続けたことを・・・・・

ヴィスコンティの死に際して、ローマ市中の移籍の壁に張り出されたポスター

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