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イタリアの巨匠 ルキノ・ヴィスコンティの生涯、バイセクシャルが描く表裏の世界

ルキノ・ヴィスコンティの年表

1906年

11月2日 モドローネ公爵ジュゼッペ・ヴィスコンティとその妻カルラ・エルバとの間に第四子(三男)としてミラノに生まれる。
小学校の過程を家庭教師について修学し、主にドイツ語と音楽を学ぶ。
中等教育は、市立の学校で受ける。
両親は音楽と演劇を愛好し、一家はしばしばミラノのスカラ座へ通っていた。
ヴィスコンティ邸ではコンサートや公爵の友人達が参加して、芝居が催されたりもした。
子供達の教育を熱心に監督したのは、母親のカルラであった。ルキノは母の命により、毎朝学校に行く前にチェロの練習をしていた。

1914年

第一次世界大戦が勃発。イタリアは翌5月、英仏協商国側に立って参戦。
この頃、ヴィスコンティはシェイクスピアの『ハムレット』を演出する。
ハムレット役はルキノ自身が、オフィーリア役は有名な指揮者トスカニーニの次女が演じる

1920年

6月 ミラノ音楽院のコンサートで、チェロのソロ演奏を行い、新聞に好意的な批評が載る。
父に勧められてプルーストの長編小説『失われた時を求めて』を読み始める。

1922年

18歳の時に神秘主義的な憧憬のため、モンテ・カッシーノのベネディクト修道院へ入る。

1926年

ピネローロの騎兵実科学校へ入隊し、二年間兵役に就く。

1927年

除隊後は競走馬の飼育に没頭。

12月 父の出資するテアトロ・ダルテ劇団がゴルドーニの『賢妻』を上演し、ルキノは小道具を手伝う。

1929年

9月 ピアチェンツァの近くでスポーツカーで追突事故を起こし、同乗者が死亡。

12月 彼は持ち馬のエストゥルゲオンを駆り、サン・モリッツ競馬で優勝する。

1930年

サン・シロに厩舎を建設。

1931年

新規に七頭の競走馬を購入し、その中の愛馬サンツィオは、翌年、ミラノとオステンダのレースで共に優勝。

1933年から1934年

パリに渡る。
この頃、パリの社交界でジャン・コクトー、カブリエル(ココ)・シャネルらと知り合う。
また、スタンバーグの『嘆きの天使』やシュトロハイムの『結婚行進曲』を観て映画に傾倒するようになる。

'34年冬 キッツピューヘルでオーストリアの公爵令嬢イルマ・ヴィンディッシュ・グレーツと大恋愛の末、結婚を決意するが、イルマの父親の反対で挫折に終わる。

1935年

映画監督でもある製作者ガブリエル・パスカルに、フローベールの小説『十一月』の映画化を共同で行いたいともちかけられ、ロンドンに渡る。
しかし、パスカルの人格を知って、企画の実現性が低いだろうと判断し、パリに戻る。

1936年

夏 ガブリエル(ココ)・シャネルの紹介で、ジャン・ルノワール監督の映画『ピクニック』の、衣装と第三助監督を務める。

10月 コモのソチアーレ劇場でトラヴェルシの喜劇『世間の同情』の上演及び、翌月ミラノでのマロリーの喜劇『甘いアロエ』の上演で舞台装置を担当。

1937年

8月 ギリシアに旅行。翌年にかけてアメリカに渡り、主にハリウッドで映画製作の状況について見学し、遠近法などを学んで後の舞台美術に応用する。

1939年

1月16日 コルティーナ・ダンペッツォで母親のカルラが他界。享年59歳であった。

4月 ジャン・ルノワールのイタリア映画『トスカ』の脚本と撮影に協力するためにローマに向かう。

9月 ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まる。イタリアは中立を守る。

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