1940年
6月 イタリアが枢軸国側に立って参戦したため、ルノワールは撮影数日にして帰国を余儀なくされる。その後、ヴィスコンティはチーフ助監督のカール・コッホを補佐してこの作品を完成させる。
1941年
カール・コッホと『ドン・ジョヴァンニ』及び『カントリー・ダンス』の原案を書く。
ローマのコッホの家で、ジュゼッペ・デ・サンティスとダリオ・プッチーニに出会い、映画評論誌『チネマ』の同人に迎えられる。
6月 『チネマ』誌に「屍体」と題した論文を発表。また、『スティーレ・イタリアーノ・ネル・チネマ』誌に「伝統と発明」と言う記事を書く。
この頃、『チネマ』の同人達とトーマス・マンの『犬と主人』『無秩序と幼い悩み』、アラン・フルニエの『モーヌの大将』、ジュリアン・グリーンの『アドリエンヌ・ムジュラ』などの映画化を検討。また、ジョヴァンニ・ヴェルガの『グラミーニャの恋人』『マラヴォーリア家の人々』『羊飼イエーリ』の映画化権を得て、その中の『グラミーニャの恋人』を脚色。だが、この脚本は検閲に引っかかり却下される。
12月 父ジュセッペが他界。ローマのサラリア街の別荘を譲り受ける。
1942年
6月15日 以前より映画化の計画を温めていたジェイムス・ケインの小説『郵便配達は二度ベルを鳴らす』の撮影を開始。
10月 長兄のグイドがエル・アラメインで戦死する。
12月 脚本に協力したマリオ・アリカータとジャンニ・プッチーニが、反ファシストの容疑で警察に逮捕される。
1943年
5月16日 ローマのアルコバレーノ館で映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』が公開。数日にしてイタリア各地で上映禁止となる
9月8日 「反ファシスト被害者救済委員会」に加わり、ローマのサラリア街の家で収容所や監獄からの脱走者を匿う。
9月~10月 『チネマ』誌に「チネマ・アントロポモルティコ」という記事を発表
10月27日 アプルッツォに潜伏していたヴィスコンティは、友人達と連合軍に合流するため南下。
1944年
2月 偽名で密かにローマに戻り、パルチザンを援助。
4月15日 ヴィスコンティはローマで逮捕されペンシオーネ・ヤッカリーノ収容所へ送られる。数日後、サン・ジョルジョ牢獄に移送。
6月3日 ヴィスコンティは処刑される前日に脱走。九死に一生を得る。
6月4日 アメリカ第五軍によって、ローマが解放される。
6月~7月 レジスタンスの仲間と、彼の体験を生かした『ペンシオーネ・オルトレマーレ』の原案を執筆。
秋 ミケランジェロ・アントニオーニ達とレジスタンス映画の企画を練る。
1945年
1月30日 ローマのエリゼオ劇場でコクトーの『恐るべき親たち』で舞台演出家としてデビューを飾る。
3月 ローマのクイリーノ劇場でヘミングウェイの『第五列』を上演。
5月 スタインベックの『怒りの葡萄』の映画化の契約をルックス・フィルムと結ぶが、実現せず。
6月4日 ペンシオーネ・ヤッカリーノの所長ピエトロ・コッホに対する裁判に証人として出廷。マルチェッロ・パリエーロ達とレジスタンスを扱ったドキュメンタリー映画『栄光の日々』の一部を担当し、自分を尋問したコッホの処刑を自らの手でフィルムに収める。
10月2日 ローマのエリゼオ劇場でコクトーの『タイプライター』を上演。
10月18日 ローマのエリゼオ劇場でアヌーイの『アンチコ゜ーヌ』とサルトルの『出口なし』を上演。
10月 イタリア・パルチザン協会の出資で、エリオ・ヴィットリーニの『人間とそうでないもの』の映画化を了承するが、実現せず。
10月30日 ローマのクイリーノ劇場でアシャールの『アダム』を上演。
12月4日 ミラノのオリンピア劇場でコールドウェルの『タバコ・ロード』を上演。
12月14日 ミラノでの『アダム』が上演禁止となる。
1946年
1月14日 ベネツィアでの『アダム』が上演禁止となる。
ローマのクイリーノ劇場でポーマルシェの『フィガロの結婚』を上演。
9月 劇団「コンパニーア・イタリアーナ・ディ・プローザ」を設立する。
11月 ローマのエリゼオ劇場で新劇団による『罪と罰』を上演。
12月 ローマのエリゼオ劇場で『ガラスの動物園』上演。
1947年
1月 ローマのエリゼオ劇場でヴィスコンティ監修の『父との生活』が上演される。
2月 フィレンツェのデ・ベルゲラ劇場でアヌーイの『ユリディース』を上演。
1946年~1947年
ミケランジェロ・アントニオーニらと『マリア・タルノフスカ裁判』の脚本を書く
1947年~1948年
イタリア共産党の要請により、南部同盟を扱ったドキュメンタリー映画を撮るためにシチリア島に赴く。
ベルガの小説『マラヴォーリア家の人々』を元にした映画『揺れる大地』を完成させる。
1948年
5月 ヴェネチア映画祭で映画『揺れる大地』が上演され国際賞を受賞する。
11月 ローマのエリゼオ劇場でシェークスピアの『お気に召すまま』を上演
1949年
1月 ローマのエリゼオ劇場で『欲望という名の電車』を上演。バスコ・プラトリーニの小説『貧しい恋人たちの日記』の映画化を企画するも実現せず。
4月 ローマのクイリーノ劇場で『オレステ』を上演する。
6月 フィレンツェ五月音楽祭でシェークスピアの『トロイラスとクレシダ』を上演。
1949~50年
メリメ原作『サン・サクルマンの四輪馬車』、19世紀ナポリの大俳優アントニオ・ペティートの伝記映画、ダンス・マラソン、ミラノの貴族の実業家一家の物語の企画を検討する。
1951年
2月 ローマのエリゼオ劇場で『セールスマンの死』を上演。
4月 ミラノのヌオーヴォ劇場で『欲望という名の電車』を新演出にて上演。
10月 ヴェネチアのラ・フェニーチェ劇場でファッブリの『誘惑者』を上演。内務省がベルトルト・ブレヒト率いるベルリン・アンサンブルの入国を拒否したため抗議。
12月 短編記録映画『ある三面記事についてのメモ』を撮影するがイタリア国内では上映禁止になる。
アンナ・マニャーニ主演の映画『ベリッシマ』公開。
1952年
10月 ヴェネチアのラ・フェニーチェ劇場でゴルドーニの『宿屋の女主人』を上演。
12月 ローマのエリゼオ劇場でチェーホフの『三人姉妹』を上演。
1953年
スーゾ・チェッキ・ダミーコと『結婚行進曲』の脚本を書く。
3月 ミラノのヴィア・マンゾーニ劇場でチェーホフの『煙草の害について』とエリビデスの『メディア』を上演。
秋 トスカニーニが、ミラノのミッコロ・スカラのこけら落としに『ファルスタッフ』を上演すると発表、演出をヴィスコンティに依頼するが、実現せず。
10月 ルキノがアンナ・マニャーニのエピソードを担当したオムニバス映画『われら女性』公開。
1954年
9月 映画『夏の嵐』がヴェネチア映画祭で上演。
10月 ミラノのヌオーヴォ劇場でレビュー『フェスティバル』、オリンピア劇場でジャコーザの『木の葉のように』を上演。
12月 オペラ『ラ・ヴェスターレ』の演出でミラノのスカラ座デビューを実現。
1955年
3月 スカラ座でオペラ『夢遊病の女』を上演。
5月 スカラ座でオペラ『椿姫』を上演。
11月 ローマのクイリーノ劇場でミラーの『るつぼ』を上演。
12月 ローマのエリゼオ劇場でチェーホフの『ワーニャ叔父さん』の上演。
1956年
2月 ミラノのクイリーノ劇場で新演出の『セールスマンの死』を上演。ミラノのスカラ座でトーマス・マンの原作のバレエ『マリオと魔術師』を上演。カラヤンがザルツブルク音楽祭でモーツァルトのオペラ『コジ・ファン・トゥッテ』の演出を依頼するが、実現せず。
6月 パリのサラ・ベルナール劇場で『宿屋の女主人』を再演。
秋 マルチェロ・マストロヤンニ、スーゾ・チェッキ・ダミーコ、フランコ・クリスタルディとチアス映画社を設立する。
1957年
1月 ローマのアルティ劇場でストリンドベリィの『令嬢ジュリー』を上演。
4月 ミラノのスカラ座でオペラ『アンナ・ボレーナ』を上演。
6月 スカラ座でオペラ『トーリードのイフィジェニー』を上演。
8月 ヴェネチアのラ・フェニーチェ劇場でゴルドーニの『スミルネの興行師』を上演。
9月 ヴェネチア映画祭でチアス社製作の映画『白夜』が銀獅子賞を受賞。
西ベルリンの国立オペラ劇場でバレエ『ダンス・マラソン』を上演。
秋 映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』が再公開される。
1958年
1月 ローマのエリゼオ劇場でミラーの『橋からの眺め』を上演。
4月 パリで『スミルネの興行師』を再演。
5月 ロンドンのコヴェント・ガーデンでオペラ『ドン・カルロ』を上演。
6月 スポレートのヌオーヴォ劇場でオペラ『マクベス』を上演。
夏 映画『若者のすべて』の脚本執筆。
10月 ローマのクイリーノ劇場でジェラルド・クェリエーリによる追憶の夕べ『エレオノーラ・ドゥーゼの面影と時代』に参加する。ローマのクイリーノ劇場で『天使よ故郷を見よ』を上演。
11月 パリのアンバサドゥール劇場で『シーソーの二人』初演。ランペドゥーサの『山猫』刊行される。
12月 ローマのエリゼオ劇場で『ギポンズ夫人の子供たち』を上演。
1959年
3月 ローマのエリゼオ劇場でファッブリの『芸術の子たち』を上演。
6月 スポレートのヌオーヴォ劇場でオペラ『アルバ公爵』を上演。