ルキノ・ヴィスコンティ作品総評
私の好きな作品を挙げるとしたら、やはり最後の5作品。
特に『ルートヴィヒ 神々の黄昏』と『家族の肖像』に関しては、文句の付けようが無い。
世間では『ベニスに死す』の評価が一番高いと言われていて、私も異存はない。
滅びの美学とそのディテイルの重要性からすると、様式美の有る『ルートヴィヒ 神々の黄昏』と『家族の肖像』を選びたい。
では、この2作品では、どちらが好きなのか?これは難しい問題。
完成度の点では、ヴィスコンティ作品中一番なのが『家族の肖像』であることは間違いない。
但し、この作品には、どうしても部屋の中のみで撮影された事と、その完成度故に私は閉塞感を感じてしまう。
その点、冗長な点も在るものの、作品の中に雄大さやロマンも秘めた『ルートヴィヒ 神々の黄昏』の方が好きとも言える。
ヴィスコンティの作品のどれか?選ぶ事自体、愚かしいことなのかも...
最近では『ベニスに死す』に対して再評価しているけど。
彼の作品は『山猫』を境に、2つの時代に分かれる。
デビュー作『郵便配達は二度ベルを鳴らす』から『若者のすべて』(『ボッカチオ』は、オムニバスのため、この対象にはならないと思う)までは、ネオ・リアリズムの旗手としてリアリズムを追求した映像に賛美が集められた。
確かに『若者のすべて』のロッコは印象的であり、そこで起きることはそれまでの劇画的な娯楽としての映画とは、一線を画した作品となっていた。
それは『郵便配達は二度ベルを鳴らす』、『揺れる大地』から一貫した作風とも言えた。
それが『山猫』を境にして、リアリズムにメロドラマ的な要素がふんだんに盛り込まれることになる。
当時のイタリアや世界の映画評論家の間では、その変貌に戸惑い、ヴィスコンティの映画作家としての末期に来ていることを口を揃えて言っていた。
当然、私自身、その当時のことは知らないが。
私が、ヴィスコンティに深い畏敬と尊敬の念を抱いたのは、やはり後期の作品を見てからである。逆に後期の作品を観て、そのルーツの前期の作品を観たというのが正解だろう。
果たして、ヴィスコンティの作品は、難解である・・・具体的に、何が面白いのか?と、聞かれても応えることは難しいと今でも思う。
最初に観たときの印象は、非常に重苦しく難解なのだが、なぜか心の中に残るものが有り、頭の中でストーリーを再度、トレースしてしまう・・・そんな感じだった。
何が、そうさせるのか?ヴィスコンティ本人自らも、言うように・・・「滅び行くもの達を描く方が、楽しくしかも難しい・・・だから、敢えて描く対象にしているのだと・・・」
ある人は、ヴィスコンティの作品の中に“腐敗”を観ている・・・私は何を観ているか?、そう、そこに有るものは、人間の“欲望”だと思っている。
これは『家族の肖像』を観ている時に強く感じたことだった。
確かに、ヴィスコンティの作品の中には、自らの出生(と言うか地位)から来る、旧時代の滅びの美学というものも色濃く感じられる。
また、その芸術性として背景に有るものが主題を飲み込む・・・とも言う。
例えば『家族の肖像』の部屋自体が物語の中心であり、ディテイルが俳優達を超越して自己表現しているとも言えよう。
もちろん『ルートヴィヒ 神々の黄昏』の城の内装も同様に・・・
しかし、それは、あくまで映画の一部。
“腐敗”と“欲望”は、同義語かもしれない・・・。それは、“若くありたい・・・”、“今の栄華を継続したい・・・”と思う気持ちと、新しい欲求とのぶつかり合い・・・その中で古いものが切り捨てられていく。
ヴィスコンティの作品の中では、常にこれが描かれている。
ディテイルを細部に至るまで、丹念に再現される・・・そこには、前期の作品以上に色濃く出ている。ではメロドラマ的要素とは・・・それは単なる表現手法の一つでしかない!または、ヴィスコンティの内なる’20年代への回帰が、そう見せるのかもしれない。
『地獄に墜ちた勇者ども』でのナチスも人間の内なる欲望の一部であり『ルートヴィヒ 神々の黄昏』での美しい城達やワグナーの音楽も欲望がもたらした、怪物なのである。
もちろん『イノセント』の男の欲望もしかり『家族の肖像』の家族の団欒もしかりである。
ヴィスコンティの作品を観ると言うことは、自分の内なる欲望をスクリーン上で見せ付けられ、しかもそれが破滅へと向かっている様を魅せつけられるのである。
ヴィスコンティのリアリティ、それはスクリーン上に見事に総てを出し尽くし、その中で内なるものも吐き出してしまう(フェリーニは、架空の世界にリアリティを再現させているところが、ヴィスコンティと大きく違う、お互いに犬猿の仲でもある)。
ヴィスコンティの中には、ファシズムとの闘争、コミュニティへの傾倒・・・そして挫折。
そこに見たものは、人間の内なるものだったのでは・・・
芸術も、思想も、人間の内なるものなのである。
彼の長い生涯のうち、残した作品は、わずか20本足らず、しかし晩年までその情熱と才能が、尽きることはなかった。
ルキノ・ヴィスコンティ演出術
優秀な監督は、常に俳優を際立たせる術を持っている・・・ヴィスコンティもその一人。
彼の作品に出た俳優は、常に最高の演技を魅せてくれる。
他の作品とは別人のようでもある。
彼の映画作りの最も重要な要素の一つとして、撮影前のリハーサルが有る。
主役クラスの俳優を集めて行われるが、この期間が他の監督とは比べようもなく長い時間を掛けて行われる。
ここで彼らの演技の殆どが決まっていると言っても過言ではない。
撮影に入る時には、既に俳優が役を作り上げているのである。
ヴィスコンティの一番のお気に入りは、やはりアラン・ドロンと言えよう。
彼は映画『太陽にいっぱい』で、素晴らしい演技を魅せてくれた。
しかし『若者のすべて』や『山猫』では、それ以上のものが有った。
『若者のすべて』のロッコは、ドロンにとって最高の役柄であり演技であったと思える。
またヴィスコンティは『異邦人』や『イノセント』に於いても、アラン・ドロンを主演にしたかったようだが、これはドロンが人気スターになっていたことも有り実現しなかった。
初期の頃、ヴィスコンティが好んで使った俳優にマルチェロ・マストロヤンニがいる。
彼はセミ・プロの舞台に立っていた頃に、ヴィスコンティに認められてローマの舞台に立った経緯が有る。
ヴィスコンティの作品では『白夜』、『異邦人』に主演している。
が、彼にとってはヴィスコンティの作品では、今一つの出来であった。
マストロヤンニ自体は、二枚目からコメディの三枚目までこなす、幅広い演技の持ち主であったが、彼本来の持つ素養が“明るすぎる”ため、ヴィスコンティの映画のディテイルと相反してしまっていたのだろう。(一方で、フェリーニ作品では光り輝いていた)
『異邦人』の後に「プッチーニ伝」に出演する話も有ったが、こちらの作品は企画が流れて実現することはなかった。
ヴィスコンティは、彼の映画を見事に表現する俳優に出会う。
その俳優の名前はヘルムート・バーガー。
彼は、ヴィスコンティのババリア三部作のうち『地獄に堕ちた勇者ども』、『ルートヴィヒ 神々の黄昏』の二作品に主演し、続いて『家族の肖像』にも重要な役として出ている。
彼は、その美しさ以上に妖艶という言葉、狂気と薄気味悪さを醸し出している。
バーガーの資質もヴィスコンティに引き出され、上記の作品の中に息づいた。
それ以外の彼は、過去の栄光にしがみつくだけと言えよう。
『家族の肖像』では、アメリカ人で既にハリウッドでも成功を収めたバート・ランカスターを主演に据えた。
これは彼の俳優としての能力(既に『山猫』でも実証済み)を認めた、ヴィスコンティの要望でも有る。
この作品では、主役の教授にヨーロッパからアメリカに渡った、学者や芸術家の特徴を出したかった意図が有るように思われる。
その時にランカスターの知的な雰囲気と、そしてアメリカとヨーロッパの雰囲気を併せ持つ彼を必要としたのだろう。
ヴィスコンティの映画の中の女性像は、彼の母親の姿が色濃く反映される。
それは強く自立した、そして美しい女性像でも有る。
当然、貴婦人としての資質が求められる。
『夏の嵐』で、期待以上の演技を魅せたアリーダ・ヴァッリや『地獄に堕ちた勇者ども』のイングリット・チューリン、『ベニスに死す』と『家族の肖像』のシルヴァーナ・マンガーノらは、ヴィスコンティの母、ドンナ・カルラを思わせ、そこには威厳に満ちた美しさを感じさせた。
それにしてもヴィスコンティの配役は妙である。
単に演じる配役に相応しいキャラクターを世界中から集めてくる。
キャリアや国籍は、そこには存在しない・・・。
シルヴァーナ・マンガーノにしても映画『にがい米』での野性的グラマー女優として世界を一世風靡した。
ドイツ・ポルノのヒロインだったラウラ・アントネッリを貴婦人に仕立てた。
マリア・シェルやロミー・シュナイダーにしても、既に地位を持っていたにも関わらず、それまでの作品の役柄とは全く異なった役で一段と輝いてみせた。
ヴィスコンティの描く女性の中で、貴婦人と対象をなす庶民の女性も見事に描ききっている。
代表的な例が『山猫』、『熊座の淡き星影』のクラウディア・カルディナーレである。
未だ大女優と呼べない彼女をこの2作品で見事に開花させてみせた。
元々彼女に有る、庶民的な親しみ易さの他に、重みの有るそして獣的な美しさを引き出して見せてくれた。
ヴィスコンティは『夏の嵐』では、イングリット・バーグマンとマーロン・ブランドで行く予定で有った。
バーグマンに関しては、夫のロッセリーニの反対により、ブランドは既にハリウッドでの地位が有り映画会社などの反対により実現しなかった。
ただバーグマンの代役のヴァッリの熱演のお陰で救われた部分も有るが・・・。
ヴィスコンティは言う「私は俳優の個性をそのまま生かしながら登場人物を描き、掘り下げて行く」と・・・。
ドイツ三部作「地獄へ堕ちた勇者ども」から
遺作「イノセント」まで
新宿シネマ・カリテ(2016年7月改装中の新宿武蔵野館)にて、ヴィスコンティ特集が開催された(1999年4月)。
上映されたのは『ルートヴィヒ(復元完全版)』、『イノセント』、『ベニスに死す』、『家族の肖像』、『地獄に堕ちた勇者ども』 の5作品(上映順)で有る。
この作品は、ヴィスコンティの最後の5作品で、製作順に並べると『地獄に堕ちた勇者ども』→『ベニスに死す』→『ルートヴィヒ(復元完全版)』→『家族の肖像』→『イノセント』となる。
『地獄に堕ちた勇者ども』から『ルートヴィヒ(復元完全版)』の3作品はゲルマニア三部作(もしくはドイツ三部作)と呼ばれるもので、『イノセント』は言うまでもなくヴィスコンティ最後の作品、遺作である。
ヴィスコンティは『郵便配達は二度ベルを鳴らす』('42)で映画監督としてデビューするが、当時の評価としては、イタリアのネオ・リアリズモの旗手として注目されている。
その次の作品『揺れる大地』で決定的となる。
が、『夏の嵐』では、オペラの表現手段を大胆に映画に取り入れること、そしてイタリア統一戦争を背景とした政治的意図を挿入すると言った、後の作品への移行が見られる。
ヴィスコンティの作品には、ある種の頽廃が常に描かれている。
その頽廃と政治的意図の結合が初めてなされたのが、ゲルマニア三部作の第一作『地獄に堕ちた勇者ども』で有る。
製作年度の時系列で見ると『地獄に堕ちた勇者ども』から『家族の肖像』までの作品は、明らかに政治的なものが強く作品の中に見ることが出来る。
当然、検閲に依って変更を余儀なくされた『夏の嵐』やイタリア統一戦争を描いた『山猫』に於いても政治的な描き込みもされているが、それよりもむしろ、ある階級の世代的な衰退を描いてるに過ぎない。
これらの作品は、後のヴィスコンティ作品の序章に過ぎないとも言える。
上記に書いた(『地獄に堕ちた勇者ども』から『家族の肖像』)4作品は、以前観た時の印象よりも政治的な意味合いを作品の中に見ることが出来た。
これは以前観たときよりも、観る側(私)の中で政治への関心や知識が増えた事によるものと思われる。
ヴィスコンティは、言うまでもなくイタリアの貴族階級出身の人物である。
後にファシストに対するレジスタンス活動などから“赤い貴族”と呼ばれることになる。
しかしイタリア貴族と言いながらも彼の出身は北部であり、彼の家系の歴史の大半はオーストリア帝国に支配されていた時代のものである。
その事は、彼にドイツへの関心を駆り立たせる要因であることは間違いないだろう。
『地獄に堕ちた勇者ども』は1969年の作品である。
ヴィスコンティは、もっと早く作られるべき作品と言っている。
何故、この作品がこれ程までに遅く出来上がったか...
これは個人的な推測でしかないが、ゲルマニア三部作の根底にあるのは、ゲーテから始まるロマン主義、それはトーマス・マン、ニーチェ、ワグナーへと繋がるロマン主義と民族主義の統合、その結実した姿のナチズム、この経緯をヴィスコンティの中で、確固たる思想体系にする事に時間を要したのではないだろうか?
『地獄に堕ちた勇者ども』では、ナチズムそのものを描こうとしている。
そのナチズムとは何か?『地獄に堕ちた勇者ども』では、これを見事に描いてみせた。
『地獄に堕ちた勇者ども』から時代は遡って、『ベニスに死す』が、この後、製作される。
ドイツの精神的な表現者だったトーマス・マンの小説の映画化である。
作品そのもののテーマは“美”そのものである。
しかし、そこにあるものは間違いなく“美”が持つ悪魔的なものを描き、それが第一次世界大戦前夜の時代性を内在させている。
この事自体を映画そのものから読み取る事は、私や(ヨーロッパの専門的な知識を持たない)日本人には不可能かもしれないが...。
『ベニスに死す』はトーマス・マンの小説であるが映画『ベニスに死す』は、トーマス・マン自身やマーラー、そしてワグナー等のロマン主義派の自在する人物を、戯画化して映画に投影させている。
それはドイツの精神的な変遷を描いているとも言える。
そして、更に時代は遡り『ルートヴィヒ(復元完全版)』が製作される。ルートヴィヒが社会に否定され、プロイセン(後のドイツ帝国)に吸収される事は、それまでのドイツ文化の崩壊を示す。
そこに描かれる政治的な意味合いは、ある階級が時代から取り残され、崩壊していくこと以上に、ルートヴィヒが愛した文化的なものが、時代によって、もちろんそれはドイツと言う枠の中で否定されていく課程が描かれる。
ルートヴィヒのバイエルン王国の首都はミュンヘンである。
バイエルン王国の崩壊は、後に民族主義の温床となり、更に伝統的なロマン主義との結合が容易い地となり、ナチスの発祥の地となる。
そのきっかけがルートヴィヒの死であり、バイエルン王国のドイツ帝国への統合であった。
ヴィスコンティがゲルマニア三部作で退廃的とも言える、芸術とそれに溺れ行く人々を描いたのは、それ自体が時代性であったとも言える。
ヴィスコンティが描く、美しい世界が魅力であれば有るほど、そしてそれに魅了されることは、悪魔との契約とも言える。
ヴィスコンティは『ルートヴィヒ(復元完全版)』の撮影終了後、過労のため倒れる。
性も根も尽き果てた、彼が映画と言う枠を超えて描きたかった世界を描ききった、その終焉を示すように...
『家族の肖像』は、映画自体が製作された1974年に近い時代の事を描いているように思われる。
この作品でも、政治的な意図が散りばめられる。
共産主義とブルジョワ的資本主義で有る。
主人公の教授は人間関係からの逃避、と同時に人間関係が生む、思想的な対立からの逃避がそこには見受けられる。
ただヴィスコンティが、この作品で政治的意図をどこまで盛り込んだかは少し疑問が残る。
ここでは以前のヴィスコンティ作品のような、人間の内面的な描写“欲望”と言うものを描いている。
『イノセント』に於いては、ヴィスコンティの遺作であるこの作品で、今までの彼の作品以上に瑞々しく美しい作品となった。
描かれているのは、嬰児殺しで有り“愛”と“独占欲”と言う“欲望”で有る。
そこには政治的な意図は薄く、むしろ人間そのものを、美しい映像と甘美な音楽で描いている。
ヴィスコンティ自身も死が近づき、政治的なものから解放され、もっと身近なものに固執したのではないだろうか?
ヴィスコンティの作品を語るとき、ヴィスコンティ自身を含め、ホモセクシャル的な表現が随所に見ることが出来る。
が、以前観たときよりも、その印象は確実に薄らいでいる。
それは私の居る現代が、性的な事においてより解放されているからかもしれない。
それは10年前と比べても進歩?している。
個々の作品で見た場合、『地獄に堕ちた勇者ども』の突撃隊暗殺の“長いナイフの夜”事件(突撃隊の歌「われらは長きナイフを磨かん」からとった、1934年6月30日のヒトラーの親衛隊による突撃隊粛正の事件を言う)で、ヴィスコンティはその物語とは違うも話として、挿入しているような錯覚に陥らせる作りをしている。
ここでは突撃隊のメンバーが男色に走り、そこを襲撃されて破滅していく。
この男色の表現は、決してヴィスコンティの趣味だけで描かれたものではない。
この時代に男色は肯定されていたものであり、美徳として容認されていたからだ。
事実、突撃隊では男性の同性愛的要素によって団結の絆を強めていた。
ナチズム運動の中にも、同性愛的要素が見受けられた。
これはドイツの民族主義、ロマン主義の恥部であり、ヒトラーはそれを自ら取り除くことで、突撃隊を否定する口実とした。
また『ベニスに死す』で、音楽家アッシェンバッハが美少年を追い回す事が、ホモセクシャル的ニュアンスを含むとしているが、これに於いても少年自体に対する性的欲求と言うよりも、“美”の象徴として描かれている、と私は解釈している。
ただ娼婦のシーンの回想と重ね合わせる時、美の追求と堕落として、その先に存在するものが性的なもので有る、これも決して間違いではない。そう、この美少年こそが悪魔なのである。
『ルートヴィヒ(復元完全版)』に於ける男色のシーンは、ルートヴィヒ自体が男色で有ることが、歴史的な事実として有る以上、作品の中には性的なもの以上のものを、ヴィスコンティは描こうとしている。
『家族の肖像』においては、教授とコンラッドの関係において男色的な意図を読み取るのは、少し無理が有るように思われる。
むしろ親子の愛情に近いものを感じる。
『イノセント』に於いて、主人公が妻の不倫相手の裸を見つめるシーンを持って男色的な意図とするのも、同様に無理が有る。
これは男女の関係に於ける性的能力を比較したいと言う、男性の屈折した心情の現れだろう。
19世紀から20世紀初頭にかけて、同性愛はある種の美徳を持っていた(いや、それ以前からかも?いや今でも?)。
芸術に於いて、文化に於いて、女性は男性を誘惑しその活動する能力を奪う存在で有る、乱暴だろうか?...そう言った考え方が有ったとしてもおかしくはないのではないか?
イタリア映画界の巨匠と言えば、ヴィスコンティと並び称されるフェデリコ・フェリーニの存在が有る。
もちろん、ビットリオ・デ・シーカやロベルト・ロッセリーニと言った存在も有るが...。
フェリーニは市民の出で有り、そこに描かれる世界は市民の生活の場で有る。
一方、ヴィスコンティのは貴族出身であり、そこに描かれるのは(初期の作品は別にして)有る一定階級の人々である。
貴族的なもの、それは描かれている背景そのものより、描く際の視点がフェリーニやその他の監督達と違うのである。
そこにはヴィスコンティ自身が貴族であることの奢りは見ることは出来ない。
映画を観てヴィスコンティが貴族であることが判るのは、その調度品、大道具、小道具の使い方の手慣れた部分だけである。
ヴィスコンティの最後の5作品の最大の特徴は、甘美であり、退廃的である。
その両方が常に存在している。
そこに有るものが政治的なものであったとしても、人間の内在するものであったとしても、ヴィスコンティの描く世界が、魅力的であればあるほど、そこには(悪魔的)堕落があると言える。
改めて、映画館の大画面(当時のシネマ・カリテの画面は、実際それ程大きくないが)と大音響の中で、酔いしれてしまうのは、ヴィスコンティの世界の深さと広さに有る。